わさおの俳句教室日誌・「返るなと」~15.07.22分の宿題
2015年5月13日から、何十年来の親友、Kさんと一緒の俳句教室に参加させてもらっている。
俳句教室は、毎回、宿題が出され、俳句教室の開催前に、俳句を3句作らなければならない。次回の宿題は、「夏の月」、「土用」及び当季雑詠である。
決められた季語に沿って俳句を作るほかに、自分で季語を選んで一句詠みなさいというのが当季雑詠(とうきざつえい)だ。
この季語を選んで詠むのがある意味では難しい。決められた季語で、あれやこれや考える前に、というか、何について詠もうか、あれやこれや考えなければならないからだ。
今回、季語選びについて試行錯誤を繰り返していたら、机の一隅にある置物が目に留まった。それは、がまがえる、ガマガエルの置物であり、親ガマの背中に子ガマが乗っかっている。
手の中に納まるくらいの大きさであり、親子ガマの様子に風情があり、めんこい。
この親子ガマが、津軽のシニアブロガーに、俳句に詠んでよ、と催促するのだ。
調べたら、蟇は、夏の季語で、ひき、がま、などと読む。ひきがえる、がまがえるのことである。私の語感的には、ひきがえるよりはがまがえるの方が、愛嬌がある。ただ、俳句の世界では、蟇は、蟇(ひき)と読むのが一般的らしい。
以下に、「蟇(ひき)」を季語として詠んだ一句を掲げる。
わさお作
返るなと きな臭き世に 蟇(ひき)がなく
戦後70年の今、我が日本国の安全保障をめぐる政局は、客観情勢と政治議論を含め、それを形容するに、きな臭い、というべき状況にある。
これに国民の一人としてどう対処するか。対処の仕方には、人それぞれにいろいろあり得る。
が、大事なことは、決して、「きな臭き世に」戻してはならない、ということである。
今、がまがえるは、鳴いている。しかし、ただ鳴いているのではない。「きな臭き世に」危険を察知し、なんとしても昔の「きな臭き世に」戻るな、と警告しているのだ。
そんな具合に、がまがえるは、鳴き、同時に、人の世の哀れさに、泣いているのである。
「俳句は抒情詩である」という。それは、そのとおりだ。しかし、単に、嬉しいとか、悲しいとか、淋しいとか、おもしろいとか、だけを歌うものであっていい、とは思わない。
津軽のシニアブロガーにとって、俳句は、自分の考えや考え方を、インターネットの大海で発信するための、一手段にすぎない。
したがって、俳句にも、時として、社会性があってしかるべきである。
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